こちらでは白旗観音寺の歴史や歴代ご住職様に関してご案内致します。
白旗観音寺のあらまし
〔生竹山観音禅寺の歴史〕
当、生竹山観音寺(白旗観音寺)観音堂は聖観世音菩薩像(春日作)をお祠りするお堂です。今を隔る1100年前の延喜16(916)年、人王60代醍醐天皇(当山開基)の御代、天皇の勅願により加古庄生竹村(現在の兵庫県加古川市尾上町池田付近、生竹が訛って池田になったと言われています)に建立することが決まりました。
遙かな昔、延喜16年九州肥後の国(現在の熊本県)阿曾(蘇)神社の宮司(神主)友成様が、守り本尊とされた観音様(聖観世音菩薩像)を携えて上洛の途にありました。途中、高砂の浦に船を泊め下船後、高砂の浦や尾上の松、鐘等をひと通り見学された後、再び船に戻られました。船に乗ろうと持っていた竹の杖を浜に突き立てました。
するとどうしたことでしょう!不思議なことに杖が根を張り、枝葉が茂って抜けなくなってしまいました。やむをえず杖を諦め出発するため船に乗りました。するとどうしたことでしょう!今度は船がピクリとも動きません。仕方なく友成様は他の乗り合わせた人々と一緒に当地にて一泊されることとなりました。その夜、友成様は不思議な夢を見ます。その事が、聖観世音菩薩様、友成様、そして後の白旗観音寺の礎、お堂が建つ最初のご縁となるのです。
夢の中で友成様は不思議な体験をします。夢の中に観音様が現れ、
「高砂の浦(播磨灘)は、古へより波風荒くして往来の船悩み多し。此処に鎮座して諸人の願ひを叶へん(高砂の浦は、昔から波風が荒く往来の船を悩ませている。私は此処に留まって人々の願いを叶えたいと思う)。」
と、お告げになりました。
目を覚ました友成様は、守り本尊の観音様と別れるのは親兄弟妻子と別れるよりも辛いことだと思いましたが、観音様のお告げに背くこともできません。断腸の思いながら別れることとし、信心深い方に観音様を託すため土地の人々に集まってもらいました。
友成様は土地の人々におっしゃいました。
「此処に信心深き人や有り(此方に信心深き人はいますか)。」、と。
これに対して、土地の人は答えました。
「藤内と云人こそ、三寶をあがめ奉り信心深き人也(藤内さんこそ、三寶をあがめとても信心深き人です)。」
<随時更新予定>今暫くお待ち下さい。
歴代住職について
あらましにも述べましたが、西暦916年(延喜16年)の平安期、醍醐天皇の勅命により現在の兵庫県加古川市尾上町池田の地に創建されました。
創建当時の開祖(お寺を開いた方)様は海傳三鯨(かいでんさんげい)大和尚様と言う方です。開祖様より何代にも渡りご住職様がお勤めを成されました。残念ながら開祖様以外の歴代ご住職様のお名前は記録が無く知る由もありません。また創建当時から暫くの間は、現在の曹洞宗寺院ではなく「刀田の太子」で有名な刀田山鶴林寺を本寺とする天台宗の寺院でした。
後に武家社会になり現在の曹洞宗寺院に転派(宗派が変わることです)することとなります。転派の時期については、江戸期元禄年間に姫路城城主赤松家の菩提寺景福寺様のご住職
ここでは曹洞宗寺院に変わってからの各御住職様のお名前を挙げていきたいと思います。
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